海女船

第四章

部屋中が突然小刻みに揺れ出したとき朱海は目を覚ました。箪笥の中からハンガーが飛び出し畳の上を跳ねて転がった。彼女は飛び起きると慌てて雨戸を開けた。モモタマナの木が手を伸ばせば届きそうな近さにあったが、その輪郭をはっきりさせるにはまだ間のある暗さだった。遠くに鶏の声がし、別の方角に犬の吠える声がした。空は夜明け前の静けさを保って藍色に澄んでいた。

地震はそれきりおさまったが六時を回って階下で母の立てるらしい物音がするまで朱海は布団の中でまんじりともしなかった。階下には泊りの人たちが食事をするテーブルと六人分の椅子があった。その一つ、神棚の下の席は朱海のお気にいりの場所でいつもぬいぐるみの熊が代わりに坐っていた。もちろんこのぬいぐるみには母親も触ることは許されないのである。その母の登代は肥満した首を着物の衿の上に見せながら洗いものをしていた。朱海は足音を忍ばせて近づくと食事の取り出し口から、

「ほら、またエプロン反対に着てる……」と声を掛けた。

「ああ、びっくりした! 驚かせないでくれよ、心臓肥大って言われてこのところ病院通いをしているんだから」

登代は濡れた手も構わず胸を押さえ、ふっと大きな息を吐いた。

「今日は船が来る日ね」

朱海は食堂の窓を開けると顔を突き出して空を見上げた。

定期便の到着はいつも彼女をうきうきした気分にさせる。

「そう言えば、内地から来た先生はどうなさっているんだい」

「澤地先生のこと? どうなさっているって相変わらず眠たくなるような授業をしてるよ」

と朱海は急に声の調子を落とすと窓を閉めた。

「最近はちっとも先生のこと話さないじゃないか。あんなに夢中になっていたおまえが……」

「別に……」

朱海は大きなあくびをすると、ピンクのパジャマが持ち上がって,下からお腹がのぞくような伸びをやり、水槽に近づいて行った。

魚もエサの時間である。

「ちゃんと誉められるように勉強やってんのかい」

「やってるよ……」

朱海は青白い水槽の中で、岩陰に隠れるように沈んで動かない巨魚を注視した。

南米のジャングルに棲むというこの魚は、全長が一メートルもあり、胴の太さは鰻の百倍もあった。

その不細工な体はしいらに似ているが、顔はまるで鯰である。

二年前、漁業組合長の息子の竜二が向こうに勉強に行ったときに持ち帰ったものだった。

「そうそう、澤地先生に届けたいものがあるんだけどね」

「えっ?」と朱海は髪を耳にかけて振り返る。

登代は水を切った手をエプロンで拭きながら、茶の間の方へ向かった。

朱海も、箪笥の前に着物の膝を折る母にひかれるように茶の間へ入った。

「どうだい、立派なものだろう」

登代は反物を肩に流して鏡台に映して見てから、朱海を見上げた。

まだ会ってもいない人に贈り物なんて――と朱海は口にしそうになって止めた。

「これならどこに出しても恥ずかしくないし、先生も喜んで納めてくれるだろうじゃないか。

先生は奥さんをお持ちでないから、お母さんにはちょうど良い柄行だよ」

登代は渋い色彩を放つ生地を肩に流したまま、鏡台に向かって立った。

自分の着物をしつらえるような華やぎが、その弾んだ声に感じられた。

「どうだい、何とか言ってくれよ。気に入ってくれそうかい?」

「ううん、そりゃ気に入るわよ」

しかし、こんな高価なものを澤地が受け取るかどうか甚だ疑問だった。

今贈り物をする理由も、また受け取る理由も思い浮かばない。

こちらが一方的に好意を示しても、先方はそれを迷惑がるかも知れないのである。

「そうかい、そうだと良いけどね。気に入って貰わないと、こちらも贈る甲斐がないからね」と登代は鏡に映した反物を擦りながら笑った。

八丈島出身者で作る婦人会の、黄八丈の黒色染めの技術を持っている人たちに登代は離れの一室を工房として提供していた。もちろんシーズンオフの暇なときに限られていたが、メンバーのほとんどが主婦で家事の片手間作業だから三年がかりで一行程を終えるという気の長い仕事だった。もちろん、市場に出せばそれだけ値が張るのは当然で、登代はいつも一反欲しいと言っていた。それを朱海が知らないうちに手に入れていたらしい。

「じゃ、今日学校に持っていっておくれ」と歌うように言う登代に、

「お母さん、今日雨になるらしいよ」

めっかり島へようこそ、という海と火山をあしらった大きなポスターが壁に貼ってある。その上の棚のテレビが天気予報を放送しだしたのに朱海は目を止めて言った。

「また雨になりそうかい?」

登代がそう言うか言わないうちに裏の庭で隣家の主人の頓狂な声が上がった。地割れだとか何とか叫んでいる。朱海が茶の間の縁側に出てみると主人は車庫のコンクリートに両手をついてライトバンの下を頻りに覗き込んでいるところだった。

「おじさん、どうしたん?」と朱海が声を掛けると、

「来て見てみなよ」と主人はざらついたコンクリの表面をそっと撫でるようにして彼女に地割れを示した。台所の窓から登代も顔を出した。

「今朝の地震のせいだよ、きっと」

朱海は縁側伝いに風呂場の方に回りサンダルを突っかけてモモタマナの木のある庭に出た。庭に古墳のような盛り土があり繊毛を露出した根付きの竹がたくさん倒れているのに、これもそうかと聞くと、それは違うと主人は言った。しかし、モモタマナの根元に何かムチで叩いたような筋が幾筋も走っていて不気味だった。車庫のコンクリにはジクザグの細い亀裂が入っている。

朱海はモモタマナの幹に身体を支えるようにして庭のあちこちに目をやっていたが、木枝の向こうに霞んで見える崎山の方を見上げた。今朝は濃い緑のスロープもその上を斜めに横切る溶岩流跡も見えなかった。

「こんなところから噴くことはないよね」と彼女は主人に恐々尋ねた。

「まあな、だが、測候所の所長に連絡しといた方がよかろう」と、主人は顔を出している登代の方にちらっと目をやった。

崎山で同じ民宿を営む同業者ながら、この人はふりの客は一切お断りのかたい商売をしていた。母と同じ八丈島の出身で、この島に渡って来たときには二千坪の土地と農業振興の補助金を貰ったという。しかし、力仕事は向かないとかでこの辺では一番に民宿を始めた人である。先祖はその昔小笠原に住んでいたらしい。カヌーで魚を獲る話とかどんな深くても底まで見える海とか、海亀の卵を産む様子だとか小笠原のことをよく話して聞かせてくれた。最近は神経痛がひどくて家に籠り切りのときが多くあまり顔を合わせなくなっていた。

泊まり客は工事関係者ばかり五人で、彼らが食卓に着く頃、朱海は自室での食事を終え、セーラー服に着替えている。汁のものなんかよそっている母の声が階下に聞こえてくるが、つくづく厄介な贈り物を預かったものと黄八丈の包みを見て溜め息を吐く。いつどうやってこんな大きな物を渡して良いか見当もつかない。窓から白く濁った空を見上げて彼女は念のために反物をビニールで包み、傘を持って定刻の八時に家を出た。

澤地は最近増田から自転車で通って来る。そして、生徒用の駐輪場にボロの自転車を止めて平気でいる。朱海はそれを見る度にがっかりさせられる。他の教師がほとんど車で通っているのに彼だけが生徒並みの乗り物に甘んじているのは歯痒いことだ。バスを使っていた方が格好良かったと思う。誰かの乗り捨てた自転車をまだ乗れるからもったいないなどといって出勤に使うなんて無神経にも程がある。もう、生徒たちの間では澤地の悪口を言う者さえ出てきている。赴任して三月も経つのに生徒たちとの間もギクシャクしてまだ誰からも尊敬された態度を示されたことがない。こんな状態があと一月も続けば間違いなく皆を敵に回すことになり孤立するのは目に見えている。そうなったら彼も前任者のように内地に帰って行くしかないだろう。滅多に人を誉めない源造が今度こそ大丈夫だろうと太鼓判を押したのが僅かな救いだが、お爺ちゃんの見立ても怪しいところがあるから半分しか信用していない。

「朱海! 朱海!」と正門に正枝が待っていた。朱海もそれに応えたが、正枝は待ち切れなくて手招きしながら跳上がっている。

朱海登場の声に二、三人が飛び出して来た。どの顔も笑みをたたえ、目を輝かせている。おはようという朝の挨拶もなしに、朱海は駐輪場に連れて行かれた。校舎の陰になっている駐輪場には崎山高校のワル、大西とその手下がたむろしていて、外灯のポールに手を掛けてぐるぐる動き回ったりしている。皆の興味が澤地の自転車に集まっていることはもう明白なことだった。朱海はその訳を直ちに理解した。

「見て、パンクしてる」と正枝が可笑しさを堪えるようにして言うと、

「誰の仕業かな……」と背の高い大西が口の中のガムを前歯と舌で転がしながらうそぶくように言った。

朱海は態と無視して、

「パンク位珍しくないやないの」と言うと、

「あほ、よう見てみい。後ろだけなら兎も角前もやっとるだろうが。誰かがやったに違いないんや」と大西は唾を吐き出しながら朱海を見下すように睨んだ。

「何でおまえがそんな心配せないかんの、それとも自分でやったと言いたいんか」

「俺やない。俺やないが、あいつに恨みを持っとる者の仕業や」

「ふん、先生に恨みを持っとる者なんかおらんわ。おるとすればいつも注意されているおまえら位のもんや」

朱海は口を尖らせて言い返したが、そんなことを言う自分にも腹が立った。その場の空気は大西の鬼のようなにきび面に占領されていたが、朱海のこの一言で正枝たち女子は、大西たちの敵、つまり澤地は敵の敵で味方という構図になった。

「あの先生を悪く言ったら、あたしらが許さんからね」と正枝が膨れっ面を突き出すようにして大西に向かった。

「へえ、あいつにさんざんこけにされながらおめえらはまだ肩を持つんかい」と大西は鼻で笑って、仲間たちを見回した。どうやら大西たちは澤地に不満を持っているらしい。

「正枝、相手にせんとき」

「だって……」

朱海は正枝を目で制した。

「朱海、一時間目はまた音楽やけど、どうするんか」と大西がからかうように言った。

「どうしようとうちらの勝手や、余計な心配はして貰わんでもいいわ」

朱海はかっと胸の一点で点火するのを覚えた。正枝やまり子も同感と頷く。

「また図書館にしけこむんやないやろな」

「あいつ、男子たちに色目使っているん、知っとる」とまり子が眉をひそめて言う。

最近、安藤が男子たちの密かな憧れの対象になっているということに気づかない彼女ではなかった。正枝たちが一斉に嫌ねえという声を揃えて頷き合うと漸く空気が彼女たちの方に逆流し始めたようだった。

「おまえら、安藤先生に悪さしたらあかんぞ」

大西は心配顔になって言った。その間抜け顔を一瞥して、朱海は、

「おまえらのこと牝猫が田舎者と言うとったわ」と安藤のあだ名で投げ返してやった。これには男子も女子も笑い声を立て駐輪場を元のにぎやかさに戻した。大西は側にいた仲間の一人を捕まえて笑われた腹いせにその首を絞め上げている。

「竜二さんがおまえのことを何とか言うとったぞ」と横目に睨みつけてやると、大西は顔色を変えて、

「何て? 何て言うとったんや、なあ朱海」と彼女に縋るように付いてくる。

しかし、朱海は彼をうっちゃったまま駐輪場を後にした。

朝一番で点火してしまった火は朱海の中でいつまでも燻り続けた。

三時間目の英語のとき不意を襲うような形でテストが実施された。澤地はいかに皆が勉強不足か分からせるためと言って赴任する前の高校での点数を黒板に提示するということまで敢えてした。長文も文法問題も難問ばかりで生徒たちは頭を抱え込んでしまった。こんな問題出来るかというような呟きが方々で起こったとき、

「一人前に文句があるなら黒板の点数を越してから言え。あんな点も越せないで偉そうなこと言うんじゃない」と澤地は嘲るように言った。その言葉に教室内は一遍にシュンとなってしまった。なおも澤地は嫌味たっぷりに皆の出来の悪さを批評しながら机の間を回っていたが朱海の側に来ると足を止め、

「ほら、ちょっと見せてみろ」と机の答案用紙を滑るように取り上げてしまった。

「嫌だ、先生」と朱海は手を伸ばした。回りの皆も釣られるようにして顔を挙げた。正枝やまり子たちクラスの面々の目も彼女の方に集まった。

「ここ二、三カ月の内に教えたことばかりだぞ……。山岡、一体おまえはやる気があるのかないのか」

澤地は軽蔑しきった流し目と共にそれを返した。朱海は頬を張られたように真っ赤になって空白だらけの烙印を押された答案に目を落とした。

教室のあちこちで私語が囁かれ出し、緩んだ空気が流れた。朱海にも促すような視線が幾つも投げられてきた。彼女が合図をひとつ送れば教室内は収拾のつかない混乱に陥る筈だった。前任者のときも彼女は遊び半分の悪戯ごころでそれをなしたのだった。あのときと今とどんな違いがあるというのか。

赴任して三ケ月で内地に引き上げて行ったその教師は朱海が大嫌いなタイプだった。髭もじゃで、昼行灯のようにもっさりとして、いつもトレーナーを着て、生徒指導の経験の豊富なことを鼻にかけてはいろんな難題を吹っかけて来る。宿題の量も半端じゃなく、誰もそれをクリアすることはできなかった。

校長たちは生徒たちの苦情を調査して、珍しくその教師をクビにする方を選んだ。それは島の皆が知っていることである。漁業組合の息子も農業振興会幹部の娘もいる。他のクラスには警察署長の長男もいる。島の社会を牛耳っているお偉方と呼ばれる人たちを親に持つ者は多い。

朱海は澤地を見た。彼は教壇に戻って何かメモをするために顔を伏せたところだった。その面長の顔に彼女は射るような視線を投げた。正枝たちはその気配にびっくりして、いよいよやるのかという不安と喜びの入り雑った目を隣り近所の者たちと交わし合った。しかし、澤地が疑いを知らないような目を上げたとき朱海はすぐに俯いていた。辺りでまたざわついたが、たとえどんな仕打ちをされても今の自分には首を縦に振る勇気は生まれないだろうと思えた。

澤地はざわついてきた教室にもう頃合いと思ったのか、

「よし、答え合わせをしよう」と内ポケットにペンをさして教壇を大股に歩いた。

案の定、クラスの成績はさんざんなものだった。朱海は自己採点を容赦なくやったのでかってないほど最低の点数になった。他は適当にごまかして十点、二十点上乗せした疑いの者もいたが誰も何とも言わなかった。澤地は機械的に個々の点数を聞き出欠簿に書き込んで行った。朱海の点を聞いたときも彼は眉ひとつ動かさなかった。そして、皆の点数を聞き終わったとき、

「思ったより良いな。やればできるじゃないか、やれば……」とほっとしたように頷いて白い歯を見せたのだった。叱られると思った皆は拍子抜けして、

「先生、こんなことしてたら成績が上がっちゃいますよ」と媚へつらうような冗談を飛ばす者もいた。どっと笑い声が上がったのは言うまでもない。

「良いじゃいか、できるようになるのを何も恐れることはないだろ」

すっかり和んだ空気の中で澤地の張りのある声のみが普段にも増してのびやかに教室中に響くのを朱海は空虚な気持で聞いていた。

授業が終わっても正枝やまり子は彼女の側に寄って来なかった。

放課後、朱海は一人で校舎の外れのテニス部の更衣室に向かった。途中職員室の側の黒松の植え込みの庭園を抜けるが、昼過ぎから小雨が落ちてきていて傘をさしてその庭園を抜けるとき彼女は脇に反物を隠すように持って急いだ。教科書と一緒にそれをロッカーに放り込んでおこうと思ったのだ。結局母に預かっていた品物を澤地に渡す機会が見付けられなかった。持ち帰って母にあれこれ事情を説明するのも面倒だし何よりも雨に濡らす心配があった。彼女はむしゃくしゃした気持ちを押さえかねてロッカーの開閉を乱暴にした。誰もいない部屋に鉄板の音はけたたましく響いた。彼女はそんなことで気持ちを紛らそうとしている自分がおかしかった。その内に胸が熱くなって悔し涙が込み上げてきた。遠くで消防車のサイレンの音がする。その音が近くなった。正門前の通りに差し掛かったとき、渡り廊下を誰かが駆けて来る。朱海は慌てて手洗いの蛇口をひねると顔を洗った。

「山岡さん、澤地先生が呼んでなさるで」と入口に立ったのは用務員のおじさんだった。

「……」

朱海はさらに何度も顔に水を被ったが、入口に背を向けたまま小さく頷くのが精一杯だった。

「何でも家から電話があったとか……」と用務員は暫く待ったが、

「分かりました」と朱海がタオルに顔を埋めたのに遠慮した風に、じゃとすぐに踵を返して渡り廊下を戻って行った。それからも正門前の高台の通りを幾つものサイレンが通過して行った。